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東京地方裁判所 昭和62年(ワ)10278号 判決

主文

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

理由

【事 実】

第一  当事者の求めた裁判

一  原告ら

1  被告は、原告熊谷昭子に対して二二八九万二四〇〇円、原告熊谷宗久、同熊谷光則及び同熊谷孝明に対して各七六三万〇八〇〇円並びに各原告に対して右各金員に対する昭和六一年九月九日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決及び仮執行の宣言を求める。

二  被告

主文と同旨の判決を求める。

第二  当事者の主張

(原告らの請求の原因)

一  当事者の関係等

原告熊谷昭子は、訴外亡熊谷周一(以下「亡周一」という。)の妻であり、原告熊谷宗久、同熊谷光則及び同熊谷孝明は、いずれも亡周一と原告熊谷昭子との間の子であるところ、亡周一は、昭和六一年九月四日、被告が開設し経営する麻生病院に入院し、被告及び被告に雇傭されて同病院に勤務する医師らによる診療を受けたが(同病院において亡周一の診療を担当した医師らを以下「担当医ら」という。)、同病院に入院中の同月九日、死亡した。

二  診療経過等

1 亡周一は、昭和六一年九月四日早朝、同人が代表取締役を務める株式会社れすとらんトーホーの社屋内において心筋梗塞を起こし、同所において安静にしていたが軽快しなかつたので、同日午後二時一五分、救急車により麻生病院に担送されて、同病院に入院した。

亡周一は、入院当時、担当医ら及び看護婦の問診に対して、不快感、体熱感、呼吸困難等を訴え、顔色は蒼白で、冷汗をかき、頻脈を呈している状態にあり、同日の心電図には、洞性頻脈並びに2、3及びaVf各誘導における異常Q波があらわれていた。

主治医として亡周一の初診を担当した被告は、亡周一の入院当日、同人の疾患は上気道感染症ないし扁桃腺炎であると診断し、検査としては心電図検査、胸部レントゲン写真(正面一枚)の撮影、血清生化学検査等の一般的検査のみを実施し、治療としても解熱剤及び大量の抗生物質の投与を行つたにとどまつた。

2 右血清生化学検査の結果は同月六日に判明し、GOTは三六三単位と異常高値であつたのに対して、GPTは正常範囲内にあり、かつ、CPK(一五七一単位)及びLDHがともに異常高値を示していた。

また、同月六日の聴診では湿性ラッセル音が聴取され、同月七日に撮影された胸部レントゲン写真(正面・側面各一枚)には左下肺野に異常陰影が認められた。

3 被告は、同月七日に、亡周一が肺炎に罹患していると診断したが、同月九日の午後八時三〇分頃まで、同人の家族である原告らに対して、亡周一の症状が軽度のものであるかのような説明を続け、同日午後八時四〇分頃に至つて、同人の容態が重篤であることに気付き、集中治療設備のある昭和医科大学付属病院に転院させることとして救急車の手配をしたものの、同人は、同日午後九時一分頃、救急車の到着を待たずに死亡した。

4 なお、同人の死亡後である同月一一日には同月六日に実施された尿の培養同定検査の結果が、同月一二日には同月九日に実施された喀痰の培養同定結果がそれぞれ判明したが、尿培養同定検査では肺炎菌(K.PNEUMONIE)が検出されたのに対し、喀痰培養同定検査ではカンディダ(CANDIDA)が検出されたのみであつた。

三  被告の責任

1 亡周一の入院当日(昭和六一年九月四日)における前記のとおりの愁訴(不快感、発熱及び呼吸困難等)、一般状態(顔色蒼白、冷汗及び頻脈)並びに心電図所見(洞性頻脈及び異常Q波)は、心筋梗塞(特に下部後壁梗塞)を疑わせる症状である。また、同月四日に実施され、同月六日に結果が判明した血清生化学検査の結果において、GOTが異常高値(三六三単位)であつたのに対してGPTは正常範囲内にあり、かつ、CPK(一五七一単位)及びLDHがともに異常高値を示していたことは、右検査当時に心筋梗塞の発症から五、六時間を経過していたことを強く疑わせ、また、同日の聴診で湿性ラッセル音が聴取され、同月七日に撮影された胸部レントゲン写真に心不全による胸水貯留及び肺動脈鬱血によるものと思われる異常陰影が写つていたことは、心筋梗塞に心不全を併発したことを示すものである。

なお、胸痛は必ずしも常に心筋梗塞に伴う症状ではなく、その発現を欠くことも多いのであるから、亡周一に胸痛の愁訴がなかつたとしても、亡周一が心筋梗塞に罹患していたことを否定する根拠とはならない。

これに対して、亡周一の疾患が肺炎であつたと断定すべき根拠はない。すなわち、同月四日の初診時の診療録には主訴として高熱、咳嗽、痰、不快感及び呼吸困難が記載されているのみであり、視診、触診、打診、聴診の結果が全く記載されておらず、咽喉部の所見すら不明であるが、同日の看護日誌には、倦怠感、脱力感及び体熱感の訴えがあつた旨の記載があるのに対して、頭痛又は咽頭痛の訴えがあつた旨の記載はなく、かえつて、同月五日の看護日誌には咽頭痛及び頭痛はない旨並びに体熱が低下した旨の記載がなされている。そして、同月七日に撮影された胸部レントゲン写真に認められる左下肺野の陰影は、左心不全及び肺鬱血像であり、左下肺野に聴取された湿性ラッセル音も心不全に由来するものと考えられるし、同月六日に実施され、同人の死亡後の同月一一日に結果が判明した尿の培養同定検査において検出された肺炎菌(K.PNEUMONIE)及び同月九日に実施され、同人の死亡後の同月一二日に結果が判明した喀痰の培養同定検査において検出されたカンディダ(CANDIDA)は、いずれも正常な口腔等にも見い出される常在菌であつて、肺炎に罹患していたものと診断する根拠にはならない。

2 したがつて、被告又は担当医らは、亡周一の診療に当たる医師として、同月四日又はおそくとも同月六日の時点において、亡周一の疾患が心筋梗塞であることを疑つて、心電図検査を経時的に行うとともに、CPKアイソザイム検査を実施するなどさらに検査を尽くし、喀痰検査もより早い時期に実施することなどにより、亡周一の疾患が肺炎ではなくて心筋梗塞であることを的確に診断したうえ、心電図の監視、意識、脈拍、呼吸及び血圧等の状態のチェック、尿定量並びに循環血液量の減少等の血行動態を知るための検査を実施するなどしてその経過を観察するとともに、安静、心筋保護、投薬、酸素吸入等の心筋梗塞急性期に必要な治療並びに不整脈、心不全・心原性ショック、肺炎・血栓症等の合併症の予防及び治療に努めるべき注意義務があり、また、同月七日の時点においては、亡周一が心筋梗塞に急性心不全を併発していることを的確に診断したうえ、適切な治療を行うべき注意義務があつたものというべきである。

3 ところが、被告又は担当医らは、亡周一の疾患が心筋梗塞であること及び急性心不全を併発していることに終始気付かず、同人の疾患が上気道感染症(扁桃腺炎)及び肺炎であると誤診して、解熱剤及び抗生物質の投与による治療のみを行い、前記のような心筋梗塞急性期に必要な治療並びにその合併症である心不全の予防及び治療を一切しなかつたことにより、亡周一を死亡させたものであるから、被告は、診療契約の債務不履行又は不法行為による損害賠償として、亡周一及び原告らが亡周一の死亡によつて被つた損害を賠償すべき責任がある。

四  損害

1 (亡周一の損害賠償請求権とその相続)

亡周一は、前記債務不履行又は不法行為により、以下のとおり合計二七〇八万四八〇〇円の損害を被つて、被告に対して、同額の損害賠償請求権を取得し、原告熊谷昭子は一三五四万二四〇〇円の、その余の原告らはそれぞれ各四五一万四一三三円あての損害賠償請求権を相続によつて承継した。

(一) (亡周一の逸失利益)

亡周一は、死亡当時、株式会社れすとらんトーホーの代表取締役の職にあり、年額四八〇万円の収入を得ていたものであつて、少なくとも満六八歳に達するまでの八年間は就労を続け、右の額を下らない収入を得ることができたはずであつたのに、昭和六一年九月九日に死亡したことにより、二一〇八万四八〇〇円(収入の三分の一を生活費として控除し、新ホフマン係数を用いて現価計算した額)の得べかりし利益を失つた。

(二) (亡周一の慰藉料)

亡周一が死亡させられたことに対する本人の慰藉料としては、六〇〇万円が相当である。

2 (原告らの財産的損害)

(一) (葬祭費)

原告らは、亡周一の葬儀をとり行い、その葬祭費として、総額二二〇万円(原告熊谷昭子において一一〇万円、原告熊谷宗久において三六万六六〇〇円、原告熊谷光則及び同熊谷孝明において各三六万六七〇〇円)を支出して、同額の損害を被つた。

(二) (弁護士費用)

原告らは、本件訴訟の提起及び追行を本訴原告代理人弁護士らに委任し、その報酬として総額二五〇万円(原告熊谷昭子において二分の一に相当する一二五万円、その余の原告らにおいてそれぞれ六分の一に相当する四一万六六六七円)を支払うことを約束して、同額の損害を被つた。

3 (原告らの精神的損害)

亡周一が死亡させられたことに対する原告らの慰藉料としては、原告熊谷昭子については七〇〇万円、原告熊谷宗久については二三三万三四〇〇円、原告熊谷光則及び同熊谷孝明については各二三三万三三〇〇円が相当である。

4 (合計)

したがつて、被告は、原告熊谷昭子に対して二二八九万二四〇〇円の、その余の原告らに対して各七六三万〇八〇〇円の損害賠償金を支払う義務がある。

五  結論

よつて、原告らは、診療契約の債務不履行又は不法行為による損害賠償請求権に基づき被告に対して、原告熊谷昭子において二二八九万二四〇〇円、原告熊谷宗久、同熊谷光則及び同熊谷孝明において各七六三万〇八〇〇円の各損害賠償金並びに右各金員に対する亡周一が死亡した日である昭和六一年九月九日から支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

(請求原因事実に対する被告の認否及び反論)

一  請求原因一(当事者の関係等)の事実中、亡周一が昭和六一年九月四日被告の開設し経営する麻生病院に入院し、担当医らによる診療を受け、同病院に入院中の同月九日死亡したことは認め、その余の事実は知らない。

二  請求原因二(診療経過等)の1の事実中、亡周一が昭和六一年九月四日午後二時一五分に救急車により麻生病院に担送されて同病院に入院したこと、同人が入院当時担当医ら及び看護婦の問診に対して不快感、体熱感、呼吸困難等を訴え、頻脈を呈している状態にあつたこと、同日の心電図に洞性頻脈があらわれていたこと、主治医として亡周一の初診を担当した被告が亡周一の入院当日に同人の疾患を上気道感染症と診断し、心電図検査、胸部レントゲン写真(正面一枚)の撮影、血清生化学検査等の検査を実施し、解熱剤及び抗生物質投与による治療を行つたことは認め、亡周一が同月四日早朝に同人が代表取締役を務める株式会社れすとらんトーホーの社屋内において病変を起こし、同所において安静にしていたが軽快しなかつたことは知らず、その余の事実は否認する。

同2の事実中、血清生化学検査の結果が同月六日に判明し、GOTが三六三単位、GPTが正常範囲内、CPKが一五七一単位であつたこと、同日の聴診で湿性ラッセル音が聴取されたこと、同月七日に胸部レントゲン写真(正面・側面各一枚)の撮影が実施されたことは認め、その余の事実は否認する。

同3の事実中、被告が同月七日に亡周一は肺炎に罹患していると診断したこと、同月九日集中治療設備のある昭和医科大学付属病院に転院させることとして救急車の手配をしたことは認め、その余の事実は否認する。亡周一が死亡したのは、同日午後九時一八分である。

同4の事実は、認める。

三  請求原因三(被告の責任)の主張は、争う。

被告は、亡周一には高熱、咳、痰、頭痛及び咽喉の発赤が認められたことから、入院当初には同人の疾患を上気道感染症と診断し、その後症状の悪化に伴い肺炎と診断したものであつて、その診断に誤りはない。

原告らが亡周一の疾患が心筋梗塞であつたことの根拠として主張する症状のうち、洞性頻脈は、高熱に相応したものと考えるべきであつて、心筋梗塞によるものとはいえない。また、心電図上軽いQ波は認められたが、未だ異常Q波というべきものではなかつた。また、血清生化学検査の結果についても、GOTが増加しているのに対してGPTが正常範囲内にあるからといつて、必ずしも心筋由来の疾患とはいえず、肝由来の場合もあるし、CPKが異常高値を示すのは、心筋梗塞の場合に限らず、高熱によることもある。したがつて、亡周一の疾患を心筋梗塞と診断すべき根拠はない。

そして、CPKアイソザイム検査は、心筋梗塞が強く疑われるときに脳梗塞との鑑別のために実施される検査であつて、通常、それ以外の場合には実施されない。

四  請求原因四(損害)の事実は、知らない。

第三  証拠関係《略》

【理 由】

一  請求原因事実中、亡周一が昭和六一年九月四日午後二時一五分に救急車により担送されて被告の開設し経営する麻生病院に入院し、担当医らによる診療を受け、同病院に入院中の同月九日死亡したこと、亡周一が入院当時担当医ら及び看護婦の問診に対して不快感、体熱感、呼吸困難等を訴え、頻脈を呈している状態にあつたこと、同日の心電図に洞性頻脈があらわれていたこと、主治医として亡周一の初診を担当した被告が亡周一の入院当日に同人の疾患を上気道感染症と診断し、心電図検査、胸部レントゲン写真(正面一枚)の撮影、血清生化学検査等を実施し、解熱剤及び抗生物質の投与による治療を行つたこと、右血清生化学検査の結果は同月六日に判明し、GOTが三六三単位、GPTが正常範囲内、CPKが一五七一単位であつたこと、同日の聴診で湿性ラッセル音が聴取されたこと、同月七日に胸部レントゲン写真(正面・側面各一枚)の撮影が実施されたこと、被告が同月七日に亡周一が肺炎に罹患しているものと診断し、同月九日集中治療設備のある昭和医科大学付属病院に転院させることとして救急車の手配をしたこと、同人の死亡後である同月一一日には同月六日に実施された尿の培養同定検査の結果が、同月一二日には同月九日に実施された喀痰の培養同定結果がそれぞれ判明し、尿培養同定検査では肺炎菌(K.PNEUMONIE)が検出されたのに対し、喀痰培養同定検査ではカンディダ(CANDIDA)が検出されたのみであつたことの各事実は、いずれも当事者間に争いがない。

二  そして、先ず亡周一の麻生病院における診療の経過と病状の推移等についてみると、前項の当事者間に争いがない事実に、《証拠略》を総合すると、次のとおりの事実を認めることができる。

1  亡周一は、大正一四年一二月二日生れ(死亡当時六一歳)の男子であつて、既往症としては、三三歳の頃、胃潰瘍の手術を受けて二か月間入院加療したことがあつたほか、三五歳の頃、肝機能の障害を指摘されたことがあつたが、治療を受けずに放置したままとなつていた。また、昭和六〇年頃から、黒色の痰が出ることがあつた。

同人は、昭和六一年九月四日当時、株式会社れすとらんトーホーの代表取締役の職にあつて、一日当たりの飲酒量はビール約五本、喫煙量は煙草約三〇本を数え、また、時に早朝からの勤務に備えて前夜から同社の社屋内に泊まり込むこともあるなどの生活を送つていた。

2  亡周一は、昭和六一年九月四日も、前夜から同社の社屋内に泊まり込んでいたが、同日午前一〇時ないし一一時頃、不快感、体熱感及び呼吸困難が出現したため同社内のソファに横たわつて休んでいたところを同社の従業員に発見され、同日午後一時五五分頃、救急車により麻生病院に担送されて、先ず、救急外来患者として、被告による診察を受けた。

3  亡周一は、同日の担当医らによる診察及び看護婦による問診の際、体熱感、頭痛、咳、痰、不快感、呼吸困難等を訴え、食欲不振及び睡眠不足の症状を呈していたが、意識は明瞭で、皮膚は乾燥状態にも湿潤状態にもなく、冷汗をかいているようなことはなかつた。

亡周一の入院直後の体温は約四〇度であり、脈拍は毎分一一四(正常値六〇ないし八〇)と頻脈を呈していたが、血圧は、収縮期血圧が一三七(正常値一四〇以下)、拡張期血圧が八五(正常値九〇以下)と正常範囲内にあつた。また、同日午後二時二分頃、同人の心電図検査が実施されたが、その所見上からは、洞性頻脈が認められたものの、いわゆる異常Q波の出現等の心電図変化は認められなかつた。

4  被告は、亡周一の右のような症状に照らして、同人の疾患は重症の上気道感染症(かぜ症候群、気管支炎等の総称)であつて、入院加療の必要があると判断し、同日午後二時一五分頃、麻生病院に入院させ、セポトリール(一日当たり二グラム二回)及びモナペン(一日当たり五グラム)の二種類の抗生物質を継続的に投与し、胸部レントゲン写真(正面一枚)の撮影及び血清生化学検査、血沈検査、血液検査その他の諸検査を実施した。

また、担当医らは、そのほか、同月五日には再度の血沈検査を、同月六日には尿の培養同定検査を、同月七日には再度の胸部レントゲン写真(正面・側面各一枚)の撮影を、同月九日には喀痰の培養同定検査をそれぞれ実施した。

これらの検査のうち、血沈検査及び血液検査の結果は即日判明し、同月四日の血沈は一時間値が一六三(正常値一〇以下)、二時間値が一六八(正常値一五以下)、同月五日の血沈は一時間値が一五三、二時間値が一六三といずれも異常に亢進していたのに対し、白血球数は六九〇〇(正常値四〇〇〇ないし八〇〇〇)と正常範囲内にあつた。また、血清生化学検査の結果は同月六日に判明して、それによれば、CRPは(4+)と陽性を示し、GOTは三六三単位(正常値八ないし四〇単位)と異常高値であつたのに対し、GPTは三三単位(正常値五ないし三五単位)と境界値程度に止まつており、かつ、CPKは一五七一単位(正常値一〇ないし一二五単位)、LDHは九三七単位(正常値五〇ないし四〇〇単位)といずれも異常高値であつた。そして、尿の培養同定検査の結果は同人の死亡後の同月一一日に、喀痰の培養同定結果は同じく同人の死亡後の同月一二日にそれぞれ判明し、尿培養同定検査では肺炎菌(K.PNEUMONIE)(2+)が検出され、喀痰培養同定検査ではカンディダ(CANDIDA)(1+)が検出された。また、同月四日に撮影された胸部レントゲン写真には左下肺野に異常陰影が認められ、同月七日に撮影された胸部レントゲン写真には同部位における陰影の増強が認められた。

5  担当医らは、亡周一の入院した昭和六一年九月四日から同人の亡死した同月九日までの六日間、同人に対し、前記セポトリール及びモナペンを毎日投与し、さらに同月八日からはヤマテタン(一日当たり二グラム)を追加して、三種類の抗生物質を投与したほか、高熱を呈する亡周一に対し、常時氷枕・氷嚢を使用させるとともに、体熱の上昇が特に著しいときには座薬インダシンの挿入又は二五パーセントメチロンの投与により体熱の鎮静化をはかつたが、同人の体熱は、インダシン等の投薬直後は一時的に多少の改善をみるものの、数時間を経過すると再び上昇し始めるという状態を繰り返し、同月五日には最高三八・九度、同月六日には最高三八・八度、同月七日には最高三九・四度、同月八日には最高三九・九度、同月九日には最高三九・二度をそれぞれ記録した。

亡周一のその他の症状のうち、咳及び痰は入院後も持続し、特に同月八日以後においては、黄色の粘稠痰がみられるようになつた。さらに、同月六日、八日及び九日の担当医らによる診察時には、同人の左下肺野に湿性ラッセル音が聴取された。他方、亡周一は、入院期間中、胸痛又は上腹部痛を訴えたことはなく、嘔気もなかつた。

6  亡周一は、同月九日午後一時五五分頃から呼吸困難を訴え始め、酸素吸入等の措置がとられたが、次第に呼吸喘鳴を増すなど容体が悪化した。そこで、被告は、同日午後八時頃、亡周一を集中治療設備のある昭和医科大学付属病院に転院させることとして救急車等の手配をしたものの、亡周一は、救急車到着前の同日午後九時一八分に、死亡(心停止)した。

二  ところで、原告は、亡周一の疾患は心筋梗塞及びその合併症である急性心不全であつたのに、被告又は担当医らは、上気道感染症及び肺炎と誤診して、適切な治療を行わなかつたことにより同人を死亡させたと主張するので、この点について判断する。

1  まず、《証拠略》によれば、次のとおりの事実を認めることができる。

(一) 心筋梗塞は、冠状動脈の循環障害によつて起こる限局性の心筋の壊死であつて、その急性期における代表的な臨床症状としては、激しい胸痛、呼吸困難、嘔気、冷汗、不整脈、発熱、湿性ラッセル音(水泡音)聴取及び血圧低下等が挙げられ、また、急性期の臨床判断に有用な検査所見としては、深く幅の広いQ波(異常Q波)の出現等の心電図変化、血沈の亢進、白血球数の増加、C反応性蛋白(CRP)の陽性化並びにCPK、GOT、LDH等の血清酵素の上昇が挙げられる。

これらの症状又は検査所見のうち、胸痛は、最も頻度の高い愁訴であつて、激しく長く持続し、安静によつても消失しないのが通常であり、その痛みは、締めつけられるようなとか、押しつぶされるようななどと形容される程の強烈なものであつて、後記の心電図所見とともに、心筋梗塞の臨床判断における最も重要な所見であるとされている。もつとも、心筋梗塞の症例中にも胸痛の訴えを欠くものが一定数存在することが報告されており、その頻度については報告者により異なるが、無痛性心筋梗塞の症例として報告されているもののうちには、脳疾患、精神病、高齢、診断の遅れ、ショック、外科手術時の発症等、痛みの感受性が低下ないし欠如する状態が背景にあるものが多く、これらの要因の影響を受けない状況下において全く胸痛の訴えを欠く症例はかなり少ないことが指摘されている。 また、急性心筋梗塞時の特徴的な心電図変化は、T波の初期増高、ST部の上昇、それに続く異常Q波(異常Q波の定義は、提唱者によつて異なるところがあり、また、どの誘導について論じるかによつても異なるけれども、単極誘導の場合については、Q波の深さがそれに続くR波の二五パーセント以上で、Q波の始まりからR波の上行脚が基線に達するまでの時間が〇・〇四秒以上のものとするのが一般的であるといえる。)ないしQS型波形の出現、治癒過程における冠性T波の出現であつて、これらの異常(特に異常Q波ないしQS型波形)は一般に梗塞部位に面した誘導に出現することから、これらがどの誘導に出現するかによつて梗塞の部位及び範囲をある程度推定することができるといわれており、そのため、心電図所見は、心筋梗塞の臨床診断にとつて、最も重要かつ有力な資料とされている。

(二) そのほか、発熱は、急性梗塞の第一週(特に二病日目)に多くみられる一般的な症状であるが、三七度ないし三八度の中等度の発熱にとどまるのが通常であり、三八度を超える高熱を呈することは稀であるとされている。また、心筋梗塞に心不全を併発した場合には下肺野に湿性ラッセル音が聴取されることがあるが、これは、肺疾患の場合にもみられる症状であつて、左下肺野において湿性ラッセル音が聴取される場合は肺炎との鑑別が困難であるとされている。さらに、血沈は心筋梗塞発症後二、三日で亢進し、白血球数は心筋梗塞発症後二時間ないし四時間で増加し始めて、一二〇〇〇ないし一五〇〇〇までの中等度の増加を示すことが多く、CRPは発症後一二時間ないし三六時間で陽性になるが、これらの亢進及び増加はいずれも肺炎等の感染症によつても生じる症状である。CPKは、心筋梗塞発症後数時間内に上昇し始めるが、筋疾患、脳血管障害等によつても上昇し、また、筋肉注射が原因で上昇することもある。GOTは、心筋梗塞の場合には発症後六時間ないし一二時間で上昇し始めるが、臓器特異性は低く、肝疾患、筋疾患、中枢神経系障害、各種薬物使用等によつても上昇し、肺炎の場合にも高値を示すことがある。これに対して、GPTは、肝疾患のあるときにはGOTよりも高値を示すか又は同程度に上昇するのに対し、心筋梗塞のあるときには正常上限値付近を変動するにすぎないものとされている。LDHは、心筋梗塞の場合には発症後一二時間ないし二四時間で上昇し始めるが、心臓のほかにも多くの臓器や組織に分布しており、臓器特異性が低いものとされている。

2  以上のような観点に立つて、亡周一に出現した前記諸症状や検査所見等についてみると、先ず、亡周一の入院当日の昭和六一年九月四日に実施された前記血清生化学検査は、前記認定の事実経過に照らすと、差し当たつて疾患発症後半日以内に実施されたものと推測することができるところ、右検査の結果によれば、CRP(4+)と陽性を示し、GOTは三六三単位と異常高値であつたのに対し、GPTは三三単位と境界値程度に止まつており、かつ、CPKは一五七一単位、LDHは九三七単位といずれも異常高値であつたというのであるから、右検査の結果は、LDHの上昇が早すぎることを除けば、概ね心筋梗塞の症状とされているところに合致するものということができる。亡周一の同日及び同月七日の臨床所見のうち、呼吸困難、洞性頻脈及び湿性ラッセル音(水泡音)についても、同様である。

しかしながら、CPK、GOT、LRHなどの血清酵素は前記のとおりいずれも他の各種の疾患によつても上昇するものであり、呼吸困難、頻脈、湿性ラッセル音などの臨床所見は肺炎を含む感染症においてもみられる症状であつて、必ずしも心筋梗塞に特有のものではない。

しかも、亡周一は、入院時から死亡に至るまでの間、心筋梗塞の典型的症状とされる胸痛やそれと疑似的な上腹部等胸部に近接した部位の疼痛も一切訴えたことがなく、胸痛と並んで心筋梗塞の臨床診断上重要な心電図所見においても、急性心筋梗塞時に特徴的な異常Q波の出現等の心電図変化がみられなかつたほか、亡周一の体温が入院時において四〇度を超え、その後も、抗生物質及び解熱剤の投与や氷枕・氷嚢の使用を継続するなどして、消炎及び体熱の鎮静化に重点をおいた治療がなされたにもかかわらず、死亡するまでの五日間、連日三九度前後の発熱を呈していたこと、入院当日の昭和六一年九月四日に実施された血液検査の結果によれば、当時既にLDHの上昇と血沈の異常亢進がみられ、逆に白血球数の増加は認められなかつたことなどの亡周一にみられた諸症状や検査所見等は、かえつて心筋梗塞の一般的症状とされているところに反するものでさえあつて、必ずしも一義的に亡周一が心筋梗塞に罹患していることを疑わせるものとはいえない。

他方、《証拠略》によれば、肺炎の臨床症状としては、呼吸困難、胸痛、咳、痰、発熱、頻脈、胸部レントゲン写真上の異常陰影等が挙げられ、特に細菌性肺炎及び重症のウイルス性肺炎にあつては三九度以上の高熱が持続することが多いとされていることを認めることができるところ、亡周一は、前記認定のとおり、入院当日の昭和六一年九月四日から体熱感、咳、痰及び呼吸困難を主訴とし、頻脈を呈していた状態にあつて、入院後もその症状は頻脈及び呼吸困難の改善と一時的な体熱の鎮静を除いて概ね持続し、特に同月八日頃からは黄色の粘稠痰がみられたほか、右同日に撮影された胸部レントゲン写真には左下肺野に異常陰影が認められ、同月七日に撮影された胸部レントゲン写真には同部位における陰影の増強が認められたのであるから、亡周一の入院時及び入院後の諸症状ないし所見は、肺炎の臨床症状とされている前記各症状と大部分において共通し、亡周一が肺炎に罹患していた可能性もまた否定することができない。

そして、死後の病理解剖の行われていない本件においては、結局、亡周一の疾患及びその死因が何であつたかを確定することができない。

3  このように、亡周一の入院時及び入院後の諸症状ないし所見は、必ずしも亡周一が特定の疾患に罹患していることを一義的に窺わせるようなものではなかつたものといわざるを得ない。

そして、このような場合において、その診療に当たる医師としては、右の諸症状や所見から最も蓋然性の高い特定の疾患を選択し仮定したうえで、それに対する治療を試行し、その効果があらわれないときにはさらに他の疾患を仮定して治療を試み、それによつて真の疾患を探り当てるという過程をたどるほかないときがあることは否定できず、本件においても、そのような状況にあつたことが明らかである。この場合において、当該症状や所見からどのような疾患を最も蓋然性の高い疾患として選択し仮定するかについては、診療に当たる医師によつて判断を異にすることがあり得るけれども、それが当時における医療の水準に照らして、合理的な選択として是認することができるものである以上は、注意義務に違背するところはないものとして、当該医師に対して診療契約上の義務違反又は不法行為による責任を問うことはできないものというほかない。

これを本件についてみると、先に説示したとおり、亡周一に出現した前記諸症状や検査所見等に照らして、もとより亡周一が心筋梗塞に罹患していた可能性を全く否定することはできないけれども、それが一義的なものとまではいうことができず、これと同等又はそれ以上に、亡周一が肺炎に罹患していた可能性もあるのであつて、担当医らが亡周一の入院当日その疾患を上気道感染症と診断し、これに基づき差し当たつて同人を入院させることにより安静を保たせるとともに、広範囲の病原菌に対応する複数の種類の抗生物質と解熱剤の投与等により体熱の鎮静化をはかるなどの治療を行い、血清生化学検査の結果が判明した昭和六一年九月六日以降も右入院当初の診断及び治療方針を維持し、同月七日の胸部レントゲン写真撮影後は同人の疾患を肺炎であると診断して、抗生物質及び解熱剤の投与を中心とする治療を続けたことは、既にみたとおりの心筋梗塞及び肺炎の症状及び所見として一般に説かれているところに鑑みて、合理的なものとして是認することができ、そこに注意義務に違背する点を見い出すことはできない。

三  そうすると、原告らの本訴請求はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担については民事訴訟法八九条及び九三条の各規定を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 村上敬一 裁判官 小原春夫 裁判官 徳田園恵)

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